最近、司馬遼太郎の「歳月」を読んでます。
分厚い文庫本1冊にかろうじて収まる長さの長編。
「竜馬がゆく」とかに比べてこの作品が知られてないのは、主役の江藤新平があまり人気も人望もないからだと思うんだけど、予想外に面白いです。
まだ半分くらいしか読んでないけど、これはアタリだと思う。
はっきりいって、僕もここまでの期待はしてなかったんだけど。
僕はここ数年、司馬さんの幕末ものが異様に好きで、長編だけでも「竜馬がゆく」「翔ぶが如く」「世に棲む日日」「燃えよ剣」「峠」「花神」「胡蝶の夢」・・・と読んできて。
そろそろほかに読むのがなくなってきていた。
だから、江藤新平だけどまあいいか、というのでブックオフで探して手に入れたのがこの「歳月」でした。
中古のくせに500円もしたけど(←憶えてるわけじゃなく、背表紙にシールが貼ってあるので)、買っといてよかった。
何がいいといって、あの時期の歴史の、これまで疎かった部分をものの見事に埋めていってくれるんだよね。
この小説は。
単に別の視点から見た歴史、とかじゃなくて、これまでなんとなく曖昧だった箇所がピタッピタッと穴埋めされていく感じ。
これまで、けっこうな数の本を読みながらも2次元どまりだった歴史観が、にわかに3次元に立ち上がってくるような。
竜馬が生み出して西郷が引き継いだ革命主流の流れを描いた小説は多いし、逆に彼らの前に敗北の悲運を味わった人々を描いた小説も少なくない。
だけど、この作品はそのどちらでもない、というところに価値がある。
たとえば、江藤新平はなぜ西郷主唱の征韓論に加担したか。
西郷を煽って薩長閥を崩そうとした、というのが一般的な説明だけど、もちろんただそれだけなんてことがあるはずもなく。
江藤には江藤の背景があり、主義主張があり、時勢観があり、それを通して見ないとわかり得ない明治政府への不満があった。
決して、単純な政権争いなんかではなかった。
または、同じ佐賀の大隈重信は、なぜ江藤とは一線を画して、薩摩の大久保利通に接近したのか。
さらにはそのことによって、江藤-大隈の関係はどのように変化していったのか。
あるいはまた、ほかの小説を読むと漠然と印象されるように、彼らが人間のスケールとして、西郷や大久保よりお話にならないほどちっぽけだったのか。
決してそうではない、ということがこの小説を読むことで見えてくる。
人間はやっぱり、生れ落ちた環境や時流によって立場を変えて、それぞれに違った才能として世に現れてくる。
その悲哀を抱えながら、死に物狂いでそれに逆らおうとした江藤新平。
逆に、鬱屈しながらも高度に時勢の流れを読んで適応し、将来を期そうとした大隈重信。
それぞれに長所・短所を抱えた彼らのキャラクターもあいまって、他作品で見かける彼らの人物像とはまったく違った魅力が見えてくる。
江藤=潔癖症の小才人、なんてステロタイプな見方をしてしまってる人にこそ薦めたい作品です。
かつて僕に新しい石田三成観を開いてくれた「関ヶ原」と並んで、これは司馬作品の隠れた白眉かもしれない。
読み終えてみなければまだ何ともいえないけど、でもそうかもしれない。
何にせよ、かなり楽しませてもらってます。
今のところ。
[2004年09月30日(木) ]
長野の連続強盗殺人事件がちょっと気になっています。
うちは毎日新聞なんだけど、今日の朝刊の記事を読んでから特に。
幼なじみの同級生(28)は、小学生時代の西本容疑者の姿を思い出した。部屋に高価なエアガンがあり、たまにプラスチック弾で通行人や通りすがりのパトカーを狙い撃っていたという。
「『まずいよ』と言っても、『大丈夫』と平気な顔だった」
小学校の卒業文集。西本容疑者はこう記していた。「ぼくは、人になにかわるぐちでも、いわれても一日でわすれてしまう。いつも、明るく、元気な、ぼく」
この一くさり読んだだけで、鳥肌が立つような違和感を感じるはずなんだけど。
少なくとも、僕はそうだった。
この不気味さに気づいて、敏感にピックアップしてこの記事を書いた記者の感覚は、相当に鋭いと思う。
小学6年生にして、もう人間として変調をきたして、ほとんど壊れている。
読み方しだいだけど、そんなふうにも読めてしまう。
本人は弁護士に対して、金がなく徐々に窮迫して、知り合い宅から盗むのももう限界になって、ここに至った。
死刑も仕方ない、納得できる、と話してるらしいけど。
でもその言葉に、どの程度の実があるのか、どうもツジツマが合わない。
この違和感に、どんな説明が可能だろう。
強いていえば、生のリアリティが違う、なんてことがありうると思う。
僕は自分自身のことも、長い数奇な生活の中で生き死にのリアリティさえ変わってしまった、なんてたまに表現してしまうことがあるけど、それとまさに同様に。
生のリアリティ、死のリアリティ。使う言葉の1つ1つの持つ意味合い。
それが違ってしまえば、同じ言葉を言っていても、その意味するところはまったく違ってしまう。
たとえば、恐ろしいほどの責任感覚の欠落、他者の感情を思いやる想像力の欠如。
「いつも明るく元気」──何の問題もないはずのこの表現に、ぎくりとするほどのグロテスクな感覚のずれが育っているのを感じてしまう。
仮に「それは元気ってことなの?」と誰かが訊いたとしても、小学6年生の西本容疑者は意味がわからずに困惑するだけだったんじゃないかと思う。
そして誤解を恐れずにいうなら、僕はこれと同質の不気味さを、電車内を走り回る「N」マーク付きのバックパックを背負った小学生の集団に感じてしまうことがある。
とはいってももちろん、多くの子どもは、べつに殺人なんかはしない。
この西本容疑者だって、何かの兼ね合いで仕事だけでもうまくいっていれば、ここまでのことはせずに生きて死んでいったに違いない。
でもその代わり、人格の歪みはどこかほかのところで必ず出てくる。
冷たい夫婦関係の果てに落ち込んだ離婚訴訟で、なんら言うべき言葉を持たない不思議な夫とか。
理屈に合わない、妙な違和感を伴う人間を、けっこういろいろな場所で見かけてるような気がしてる。
たとえば電車の中で。
この人はなんでこういう行動ができるんだろう、と、怒りを通り越して不思議になってしまったことはないかな?
または、傍若無人にふるまう子供を注意しない親の姿を見ながら、この子供はどういう人間に成長していくんだろう、と思って暗澹となるとか。
そんなことが、僕には少なからずある。
どこかが壊れている人が増えている、ような気がしてる。
僕の世間なんか、現状じゃ狭いもんだけど、だからこそ余計によく見えることだってあるかもしれない。
たまに乗る電車の中で感じる、あの違和感。
それのはるか延長線上にあるものを、この西本容疑者には感じるのです。
死刑も仕方ない、と彼は言う。
でも、「死」という単語ひとつの把握やイメージによって、その言葉全体の意味合いも重みもまったく違ってしまう。
せめてその違いを、ズレてる当人が認識しきってればいいようなものだけど。
そういえば。
ついさっきまで、サッカーのユース代表のベトナム戦を見てたんだった。
それで早速だけど、実に酷いね。あの世代は。
アテネオリンピック代表は「谷間の世代」とか言われてたけど、どうやらそれどころの騒ぎじゃなさそう。
謹んで「谷底の世代」の称号を捧げます。
たしかに平山と森本とカレン・ロバートには素質を感じる。
でも、見てて笑っちゃうほど「その3人だけ」なんだよな。
僕は代表チームのポテンシャルを、「異能の主」がどれだけいるか、を基準に測ることにしているんだけど。
その基準に照らすと、あのユース代表の将来性は柳沢世代以降でダントツの最下位です。
かの「谷間の世代」でさえ、こんな不毛ではまったくなかった。
石川のスピード、田中達也のドリブル、阿部のフリーキックとロングフィード、大久保のゴール前での殺気と嗅覚、・・・などは見間違えようもない「異能」だった。
その点だけは世界にも通じようかという「凄み」にあたる部分だった。
そういうものが、あの代表にはほとんどない。
FWの3人を除いて。
たとえば、あの代表でドリブラーといったら誰?
パサーは?フリーキッカーは?
スピードスターは?
傑出した個性の集まりであれば、とうぜん瞬時に答えが出るはずのこうした質問に、どう答えていいかわからなくなるんだよね。
そして不幸にして、彼らのプレーを見ていると、彼らは能力に乏しいばかりでなく、サッカーに対する哲学もない。頭もよくない。
やるべきことを自分たちで整理できない。試合の流れを読めない。
・・・。
彼らがそのまま、大した入れ替わりもなくオリンピック代表へと繰り上がっていくようなら、これはことだよ。
小野世代を頂点とする「ゴールデンエイジ」が、文字通りのゴールデンエイジでしかなかったってことを証明するような世代になりかねない。
小野世代でいえば、厳密に彼の同級生だけに限ってみても、小野、小笠原、中田浩二、本山、高原、稲本、といった才能がいた。
彼らは今でも、トップクラスのプレーヤーとしてそのまま通用している。
でも、彼らに比肩するような選手は、今のユース代表の中盤以降には1人もいない。
プレーを見れば見るほどに失望するし、もしこの代表が負けたらもう、凄まじく腹が立つだろうなと思う。
谷底の世代。
みんなそろって別人のように化けてくれりゃいいけど、その可能性は限りなく低いように思えてならない。
先行きが本当に心配です。